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第2章 強い絆、試練の時代:1933年~1945年

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思うに任せぬ拡販

当社が航空機・陸上部門に進出し始めた頃、塗料の最大の顧客は「航空機」と「鉄道車両」でした。
しかし、航空機分野では、翼の亜麻糸で織った布張りに塗る塗料は大阪のゼニ屋が軍と強く結びついており、他社が参入することは困難でした。
鉄道車両に関しても、既存の壁は厚く、通常の手段では突破できませんでした。

そんな時、予期せぬ転機が訪れます。
江口巖商店が発足して3、4年後の昭和8年(1933年)、関西ペイントの織田秋之助常務が二代目店主 江口巖のもとを訪れました。
関西ペイントが総力を挙げて開発した国産ラッカー「セルバ」を日本車輌に売り込むための協力を申し出たのです。
当時、鉄道車両の塗装規格は、日本車輌が鉄道省からの依頼で作成しており、品質検査は非常に厳しいものでした。
輸入塗料に依存していた時代であり、国産塗料を採用してもらうことは容易ではありませんでした。

関西ペイントも当社も、困難な状況に立ち向かいながら、総力を挙げて日本車輌に交渉を重ねました。
名古屋出張所長を先頭に、本社の幹部が何度も足を運びましたが、門前払いが続き、話を聞いてもらうことさえできませんでした。


翼の亜麻糸

翼の亜麻糸

国産ラッカーエナメル「セルバ」の成功

そのような状況の中、二代目店主 江口巖は、以前より親交のあった水野金雄氏が日本車輌の塗装主任を務めていることを知りました。
巖は連日のように水野氏のもとを訪れ、熱心に説得を続けました。
その熱意と、当時高まりつつあった国産技術への期待感が追い風となり、ついにテストの機会を得ることができました。
技術力で勝負できるチャンスが訪れたのです。

輸入ラッカーと国産ラッカー「セルバ」の比較試験は、米原~東京間を同一条件で1年3ヶ月間継続して行われました。
試験の結果、輸入品、国産品ともに良好な成績を収め、「セルバ」が輸入品と比べても遜色がないことが証明されました。
これは、関西ペイントと当社の見事な勝利でした。
以後、「セルバ」は客車、貨車の外部塗装に採用されるようになり、国産ラッカーの飛躍的な発展へと繋がっていきました。

この成功がきっかけとなり、当社は関西ペイントと強い絆で結ばれるようになり、やがて関西ペイントオール特約店の中でトップの地位を築くほどの大手ディーラーへと成長していきました。

トヨタ自動車との出会い

昭和12年(1937年)、日本の自動車産業史にその名を刻むことになるトヨタ自動車の工場建設が始まりました。
トヨタ自動車は、塗装工場のレイアウトと使用塗料の選定について、関西ペイントに全面的な協力を要請し、その納入責任特約店として江口巖商店を指名したのです。
これは、自動車産業という新たな分野において、当社の歴史が始まる重要な出来事でした。

このように当社の経営が軌道に乗り始めた頃、中国大陸を舞台に戦況は厳しさを増していました。
日本国内の軍国主義化は一層進み、日本車輌、大同製鋼、豊田自動織機、名古屋造船など、この地域に拠点を置く企業も、次第に軍需産業へとシフトし、発展していきました。

三菱の名古屋航空機製作所についても、当社は塗料販売会社第一号という実績があったことから、同社の軍需工場が稼働するにあたっては、航空機用の塗料はもちろん、その他の機械、工具なども大量に納めるようになっていきました。

こうして当社の売上は年ごとに増加し、主要な顧客がすべて優良企業であったことから、取引は手形などを一切使わない銀行振込による現金決済であり、貸し倒れは一件もありませんでした。

昭和13年(1938年)10月には、店舗を現在の本社所在地である名古屋市南区南陽通2丁目1番地(現名古屋市南区明治1丁目19番5号)に移転し、更なる発展の基礎を固めていきました。
このままいけば、当社の業績はますます向上し、軍需産業とともに発展の道を歩むことが十分に予想されました。


昭和13年(1938年)頃の本社

昭和13年(1938年)頃の本社

販売会社としての地位を築く

昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争に突入すると「企業整備令」が制定され、第二次、第三次と続き、昭和18年(1943年)春までに70万人を超える中小企業者の経営解体が行われました。
各業種とも販売業者の整備統合が一斉に行われ、名古屋市の塗料関係については、わずかに江口巖商店、福永塗料店(のちに日本ペイントHDに吸収)、沢重商店(のち廃業)の3店を残すのみとなりました。

その頃、当社の社員は10名で、仕事は山ほどありました。
給料も一流企業並となり、ボーナスも半期600円という当時としては非常に高い水準でした。
取引先は三菱航空機、大同製鋼、豊国セメント、日本車輌、名古屋市役所、愛知時計、服部紡績といった優良企業ばかりであり、このうち、三菱航空機、大同製鋼、日本車輌、愛知時計の4社だけで売上の70%以上を占めていました。
当社は販売会社として揺るぎない地位を築いていったのです。


塗料

戦争の悲劇

しかし、戦局は厳しさを増していきました。
戦況が日に日に悪化するにつれ、若い男子社員は次々と戦地に赴き、兵隊に行かない者は国民徴用令で軍需工場で働かねばなりませんでした。
会社に残っているのは女子社員だけとなり、販売会社として、人材面で大きな支障が生じてきたのです。

昭和18年(1943年)になると、ついに塗料関係の販売業務は“開店休業”の状態に追い込まれました。
やむなく全部の仕事を関西ペイント名古屋出張所に委譲し、一切の業務は、実質的にこの出張所で行うことになりました。
ただ、この時、特約店契約の信任金5万円は関西ペイントから返してもらわず、そのままにしておきました。
同社との縁を切らないためでした。
結果的に、このことが戦後の再興に幸運をもたらします。

昭和19年(1944年)末になると、名古屋への空襲も日に日に激しさを増しました。
そしてこの年の12月10日、中京地区を襲った三河地震で、江口巖商店の店舗と倉庫は壊滅的な被害を受けました。
追い打ちをかけるように、昭和20年(1945年)5月、B29の空襲で、当社の建物、設備一切はことごとく焼失。
ついに完全な休業状態に至ったまま、激動の時代、戦中の歴史のページを閉じたのでした。


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