企業体質の整備・強化
昭和35年(1960年)、日本経済は高度成長期に入り、多くの企業が新しい技術を取り入れ、経営を刷新するなど近代化の道を歩んでいました。
当社においても、伊勢湾台風の被害は完全に消え、着実に発展の道を歩んでいました。
自動車産業の発展とともに、トヨタ自動車は拡大を続け、各地に次々と工場を建設していきました。
当社もこれに伴い、営業拠点のネットワークを広げることは可能でした。
しかし、そのためには相応の人員を配置する必要があります。
現実的な問題として、社員をどれだけ効率的に配置しても、既存の顧客への供給だけで手一杯の状態でした。
とはいえ、この年の年間売上高は6億2300万円と、10年前の約6倍という大きな成長を遂げていました。
得意先も102社に上り、いずれも優良企業ばかりでした。
明けて昭和36年(1961年)は、社内整備に力を注ぎ、当社の経営革新が進んでいきました。
3月には社内規定を制定し、就業規則と給与体系の両面を整備しました。
9月には資本金を700万円に増資し、さらなる飛躍に備えるなど、徐々に企業体質の近代化を進めていきました。
さらに昭和37年(1962年)1月には職制を実施して商社としての機能を強化しました。
7月には創業55周年記念式典を盛大に開催しました。
9月には資本金を1000万円に増資。
取扱商品も、関西ペイントの特約店として塗料全般に加え、日本パーカライジング、日本ゴム、日本ヘルメチックス、サンスター化学工業、マトコ工業、岩田塗装機工業、日本デビルビスなどの代理店として、金属表面処理剤、接着剤、シール材、塗装設備、塗装機器と事業領域を拡大していきました。
昭和37年(1962年)11月には西加茂郡三好町に三好倉庫を新設しました。
翌昭和38年(1963年)4月には三好倉庫を事務所に昇格しました。
そしてこの年の12月、年間売上高10億円突破を達成しました。
名古屋で初めての電着
昭和39年(1964年)3月には、名古屋地区で最初に電着塗装の設備と塗料を販売しました。
東郷製作所、日本工芸の設備で、塗料は関西ペイント製でした。
これは、記念すべき名古屋における電着塗装設備の1号機となりました。
この年の11月、業務に余裕が出始めたため、第1回家族懇親会を名鉄ホールで行いました。
関西ペイントとの「火曜会」
昭和40年(1965年)、関西ペイントの技術者と当社の営業担当者との打ち合わせ「火曜会」をスタートさせました。
当時、関西ペイントは労働組合の力が強く、時間外に外部との会議を行うことに抵抗感がありました。
しかし当社は、あえて時間内の会議ではなく、組合の人たちを説得し、就業開始より30分早く打ち合わせを行うことにしました。
こうして、毎週定期的に顔を合わせ、話し合いを続けるうちに、お互いの意図することが次第に理解できるようになり、関西ペイントと当社の信頼関係はさらに深まっていきました。
※現在も「火曜会」は継続しており、就業時間の8時30分から開始しております。
社是『人和成城』の制定
昭和41年(1966年)11月、江口巖社長が社員はじめ多くの人々から惜しまれながら逝去されました。
ただちに江口勲専務が三代目の社長に就任し、橋本喜代二常務が専務に、太田弘常務が留任して新体制がスタートしました。
先代社長の経営理念を継承し、社業の発展に尽力していくことを誓いました。
翌昭和42年(1967年)1月、創業60周年を迎えるにあたり、社是「人和成城」を制定しました。
この四文字は孟子の教えを要約したもので、時代の流れや社会の変動による困難な状況が押し寄せようとも、一致団結して事に当たれば、必ず道は開けることを示唆しています。
事実、当社もこれまでの歴史の中で幾多の困難に直面してきましたが、ことごとくこれを乗り越えてきたのは「和」であり、それに基づく一途な仕事への「情熱」でした。
山の家の開設
昭和42年(1967年)1月、三好事務所を営業所に昇格させ、総体的な営業活動はますます活気づいてきました。
同年7月には創業60周年記念式典を国際ホテルで開催しました。
経営刷新も徐々に進み、販売会社として名実ともに充実した時期を迎えていました。
この60周年記念事業の目玉が、社員のための福利厚生施設である山の家でした。
長野県西筑摩郡日義村に建てたもので、「木曽駒山荘」と名付けました。
白樺林の中に立つ山荘は社員の評判も非常に良く、60周年記念事業にふさわしいものとなり、大成功でした。
この年12月には、年間売上高20億円を突破しました。
社員の士気はいよいよ高まっていきました。
多面的経営の模索
昭和43年(1968年)4月、刈谷市今岡町に「刈谷サービスステーション」を開設し、塗料の調色サービスを始めました。
同時に、社内では多面的経営の模索を開始しました。
「現在の陣容で、多面的にもっと売上を伸ばす良い方法はないか」を真剣に検討し、「今扱っている塗料(塗膜)に関連するあらゆる事業を考えてみたらどうか。塗膜形成には前処理段階から最終仕上げまで、きわめて複雑で多くの工程を必要とする」、「それだけ商売の機会が多いわけだ。塗装器具も必要だし、シールや接着剤も必要になる。設備も売り込むことになるだろう」等々の意見が出されました。
こうした発想のもと、具体的に行動を開始しましたが、しばらくして大きな壁にぶつかりました。
機械類を納入したユーザーから「具合が悪い。すぐに直してほしい」と言われても、即座に対応することができなかったのです。
もちろん、こんな中途半端な方針では進展は望めません。
そうした深い反省に立った上で、結局、「江口巖商店はあくまで塗料だけを看板にしよう」という結論に至りました。
かくして塗料以外の一般の部品専門の新会社を設立することになり、株式会社エクチが誕生しました。